海外生活は学びと刺激、孤独と後悔の連続。痛感した「自分の意志」「根を張ること」の大切さを台湾で具現化する。

2020.02.06

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Kentaro Eguchi

Profile

福岡県で保育園を営む家庭に生まれる。
高校3年生の時、先に留学していた姉の勧めもありアメリカに留学。
そのままニューヨークの大学に進学。教育とアートに関して学び、日中は幼稚園、夜は村上隆氏のアシスタントとして働くという貴重な経験を積む。
アメリカで知り合った台湾の女性と結婚、移住。
現在は台湾で幼稚園を経営する傍ら、幼児向けの木製玩具の制作・販売や幼稚園のインテリアプロデュースなどを数多く手掛ける。

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2年ほど前、弊社の台湾メンバーから「台湾でとても面白いビジネスをしている日本人がいる」と聞き早速フェイスブックで繋がる。
玩具制作を手掛けておられるだけでなく実際に幼児教育にも深く関わっておられるスタンスに強い興味を抱いた。
そのスタッフの家族が、以前に仕事でお世話になっていたご縁もあり今回改めて取材をご相談。
日本人でありながら台湾で玩具制作、教育に関するビジネスを展開される健太郎さんにインタビューの時間をいただいた。

流れの中で海外に。スキル、言語もすべて現地で身につけた

Interviewer 「海外に行きたい」と思われたのはいつ頃ですか?

健太郎さん 私自身は普通の高校生で「海外に行きたい」とは思っていなかったのですが、先にアクティブな姉がアメリカに留学していたんですね。
知り合いがいたコネチカット州でした。
戻って来た姉の話を聞いたりしているうちに、漠然としたイメージは湧きましたが、最終的には姉から「行ってみなよ」と背中を押される感じになって。
高校3年生の夏「それなら行ってみようか」と流れに身を任せるような感覚でコネチカット州へ1年間のホームステイを決めました。

結局、そのホームステイ中に「ニューヨークの大学に行く」と決めて1年後に一旦帰国。
すぐにニューヨークに行き、そのまま12年間アメリカに住むことになりました。

実家がモンテッソーリ教育を掲げる保育園なんですが、大学卒業後にモンテッソーリ教育を深く学ぶため、ニューヨークからロンドンにも1年留学しています。

Interviewer きっかけから考えるとすごい流れになりましたね(笑)

健太郎さん はい(笑)ニューヨークで大きな出会いがあったんですよ。
それは現代アーティストの村上隆さんとの出会いです。
偶然彼と知り合いになり、アシスタントを5年ほど続けていました。
当時は村上さんと私の二人だけ。せっせと二人で作品を作る。
昼間はモンテッソーリの幼稚園で先生として。夕方からはアシスタントとして活動する日々でした。
忙しくはありましたが、ニューヨークで生活を続ける大きな理由にはなりましたね。

Interviewer 英語圏での12年間がとてもスムーズに流れていったように思いますが、そもそも英語は話せたのですか?

健太郎さん ほとんど話せない状況でホームステイを始めています。
今の台湾でもそうですが、言語は全て現地での生活を通して身につけました。
必要があると勝手に身につくというか、つけようと努力するんです。
私も幼児教育に関わっていますが「子供には早いタイミングで英語に触れさせよう」という流れがあるじゃないですか。
個人的にはあまり共感はしていなくて、必要があると学ぼうとする。必要がないと学びにはなりづらいと思っています。

私の子供がまさにそうで、日本語・中国語ともに話せますが、私と妻の共通言語である英語は話せません(笑)
毎日聞いているはずですが彼の生活には必要のない言語であるということが大きな理由だと思います。

後悔もするが得るものもたくさんある

Interviewer アメリカやイギリスでの生活で他にはどのようなことを感じられましたか?

健太郎さん 国や場所に限ったことではないかもしれないですが、やはり自分が元いた場所から長く離れてしまうと、その場所に戻ったとしても人や情報と上手く繋がることができなくなってしまうんですね。
植木を別の場所に植え替えるのと同じような感じで、海外という別の植木鉢に移動する時に根っこは切って持っていくことになります。
地元という元の植木鉢には根が無いわけで、そう簡単には戻せない。
同級生もその間に進学や就職していたり環境が変わっているし、中には私と同じく地元を離れていたりする。
ただ、アメリカや海外に行く人は稀で、みんなある程度地元には根っこが残ってたりするものなんですよ。

僕は自分の強い意志でアメリカに出たわけではないものの、結果的に日本に根っこを残すことができなかったので、このあたりは「もう地元(日本)は戻る場所では無いな」と寂しさや苦労を感じたことはあります。
こんな経験を踏まえいつも言っているんですが、海外に出たい人は自分の意志で行くべきだと思っています。
「とりあえず行ってみたら?」とか言われていくものではないし、もしそんな選択をするくらいなら、自分が今いる場所でしっかりと根っこを張って居場所を作っていくことも考えた方が良いと思います。

Interviewer とは言うものの健太郎さんご自身は現在までかなり長い期間を海外で過ごされていますよね(笑)

健太郎さん そうですね(笑)僕自身は根無し草というわけではないですが、やはりその場その場で何とか根っこを張っていくわけです。
工夫もいろいろしましたし。そういう意味では自分の人生として後悔はしていないですね。
ただ、そうじゃない人生もあったな。とはたまに思います。

とは言え、やっぱり海外に出ると色んなものを見たり聞いたりするので価値観がかなり変わってきます。
「こうでなければいけない」という狭い価値観ではなく「こんなのもある」「あんなのもある」という幅が一気に広がった感じがします。

ニューヨークで学んだことは、あそこにはアート(芸術)でも「最高のもの」と「最低のもの」が共存している。
収入にしても大金持ちと食事に困る人が一緒にいる。良いもの、悪いものが混在している。
まさにカオスです。なんでもある。
さらに面白いのが、その立場が急に逆転することがある。価値観が一気に変わるんですね。
そんな流れがぐるぐる回っているので、何を信じていいのかわからない。

つまり「何でもいいんだ」ということ「自分を信じてやっていること」であれば結構何をやってもいいんだということ。
「何が正解なんだろう」と受け身になるのではなく。自分で深く考え、問題を作る側になるべきなんだということが、ニューヨークでの大学生活4年間で至った結論でした。

生活を実感したい。それが台湾にはあると思った

Interviewer そんなアメリカでの12年の生活を終えて台湾に来られます。

健太郎さん 妻とはアメリカで知り合ったのですがその後4年ほどアメリカと台湾で遠距離になりました。
妻は「台湾に来い。来い。」と(笑)
かなり悩みましたが、やはりニューヨークは仕事を見つけることが大変で。
特にアジア系の人が安定して働くことは非常に難しいものがありましたね。

そんな中、2001年の春に台湾に移ることを決めました。
元々アジアンテイストのものが好きでニューヨークでもチャイナタウンにはよく行っていたんです。
アートに関しても映画や写真、アジアのクリエイターの作品が好きで良く観ていました。
ただその頃に、ずっとやってきていた芸術よりも「生活」を実感したいという思いが強くなってもきていて。
それが台湾にはあるように思いました。
妻にも会いたかった。正直に言うとこれが大きな理由の一つです(笑)

Interviewer ニューヨークから台湾。ご家族はどんな反応でしたか。

健太郎さん もちろん「やめとけ。目がくらんでるだけだ」と(笑)
だけど、自分で決めることが重要ですよね。
ニューヨークで働いている時も家族は「日本に戻ってこい」とは言ってくれていました。
「実家の幼稚園を継いでくれ」という強い期待感も感じましたが、断り続けました。
当時はその期待感に応えることに何か違和感を感じていた記憶があります。
今になると親の気持ちもわかりますが、僕には僕の人生がある。
親は子供を引っ張るべきではないんです。
僕自身、自分で決める、切り拓くということを大切にしたかったんだと思います。
改めて考えるとモンテッソーリの教義にも合っているんですよ。

私自身、自分の子供に対しても同じくで、本人が決めたことなのであれば行きたい場所に行けば良いし、やりたい仕事をすればいい。

親孝行は離れていてもできますし、いい距離感だからこそできることも多いとも思いますし。

アメリカから台湾へ。仕事、人が大きく動き出した

Interviewer 台湾に来て新しい生活、お仕事が始まります。

健太郎さん 台湾に移って結婚。幼児教育を学んでいた二人が幼稚園を開くのは自然の流れ。
まずは自宅で0-3歳を対象にした小さな私立幼稚園を始めました。
モンテッソーリ教育に基づく幼稚園です。
それを少しづつ大きくしていき、今では2つの園と親子が共に来ることができる親子カフェのようなものを経営しています。

またフリーランスとしても活動。
30歳を超えていましたが、そこからの10年、色んなチャレンジをしながら自分の適性を見極めていた時期になります。
写真や動画の撮影、編集をしてみたり新しいソフトを購入して使ってみたり。
幼稚園や保育園が主なお客さんになりますが、モンテッソーリ教育を掲げる幼稚園のPRなども担当していましたね。
独学でグラフィックデザインも学びポスターを作ったり、台湾のことを海外に紹介する政府のお仕事なども。
幼稚園という収入のベースがあったからできたことだとは思います。

Interviewer どんどん新しいことにチャレンジしていかれますね。

健太郎さん ただ40歳を超えてくるとデザインするにしてもセンスが追い付かなくなってくる。
いいもの、新しいものはたくさん出てくるじゃないですか。
興味はあるから研究するんです。
ただ若い時のように「これいいな」と思えることが少なくなってきたんです。
それなりにわかるんだけど根本的には納得できない。
機材にしてもソフトにしても常に新しいものが出てくるし、使い方も変わっていく。
そろそろ取り組み方を変えていく必要があると感じた時期でした。
ちょうどその頃、少し体調を崩したんです。

Interviewer お仕事にも影響がでますよね。

健太郎さん 自分でも調子が良くないことは理解しているんですが中々コントロールできない。
好きだったデザインや漫画を読むことも集中できない時期が続く。
だけど仕事はしたいし、しないといけないと考えてしまう。
色々自分でも勉強し、半年ほど自分自身を緩やかにマネジメントして、休みながら調子を戻すことに努めました。
その時は良かれと思ってした無理が、結果的には未来に大きなマイナスの影響を及ぼしてしまうので、そうなる前にしっかり休む。
今思うとアメリカで常に感じていた孤独や不安などが僕の中に蓄積されていたんだと思います。
海外では仕事があっても家族がいても、たまに不安を感じる人は多いと思いますね。
日本語で思いっきり話をしたくなる時もありますし(笑)

Interviewer そのような状況で40代をどのように過ごすと考えたのですか。

健太郎さん 体調も落ち着いたころ「こっからどうしていこうか」と考え、いくつかテーマ、ポイントが出てきました。
まずは手作業でできることを仕事にする。コンピューターでする仕事はやはり長くはできない。
手作業を大きく取り入れるように考えました。
次は「60歳」まで続けられるような仕事にすること。
最後は「教育」を活用できる仕事にすることです。

これをベースに考えた時に、その数年前に少し悩んでいた「幼児玩具」と繋がりました。
当時、ちょうどいい幼児向けのおもちゃがなく、自分ならどんなのを作るだろう。まず100個考えてみよう。スケッチしてみよう。と色々試行錯誤していたんです。
それを思い出して、実際に仕事にしようと動きだし「eguchi toys」を設立しました。

価値観の違いを受け入れて自分から変わっていく

Interviewer 今までのご経験と夢や未来がリンクしていきますね。

健太郎さん そこからまた自分たちで試行錯誤しながらの日々。
どうやって作るのか、何を使ったらいいのか。自宅のベランダに機材を置いて黙々と作業していました。
いかに初期費用を掛けずスモールにビジネスを始めるか。これは重要だと思います。

次に「ブランドを先に作る」ことを意識しました。
SNSを上手く活用。今までのコネクションももちろん活かして広めていくこと。
お金を掛けなくても自分たちでできることはありますよね。
もちろん広めている最中もデザインはしていきます。
「これはいいかも」というものは工場で作ってみたり、他のおもちゃ会社とコラボしてみたり。

Interviewer しっかりと攻守バランスが取れているイメージですよね。

健太郎さん 通常、木製玩具はコストがかなりかかります。なので数個、数十個単位で販売していたらビジネスにならない。
大手のメーカーはそれを1000、2000と海外の工場で大量に作って販売する。
だけど普通に考えてたら僕たちでは勝負にならないですよね。
とはいえ、街の食堂、レストランは近所のお客さんをメインに商売し、成り立っているわけです。
やはりここでもスモール。またローカルでビジネス展開すべきであると確信しました。
自分たちでできるブランディングをしっかりと進めて、手の届く範囲のユーザーや幼稚園に良いものを販売していくことを意識しています。

Interviewer お仕事を進めていく中で意識されていることはなんでしょうか。

健太郎さん 実際には「価値観の違い」には大きく悩みました。
僕の常識は相手の常識ではないかもしれない。同じ「急いで」という言葉でも「今すぐ」なのか「今日中に」なのかはわからない。
「みんなが言ってるよ」という言葉の「みんな」に僕が入ってない可能性もあるじゃないですか。
ましてや国も違うのでビジネスの進め方ひとつにしても「僕として理解はできるが納得はできない」とかもあるわけです。
実際の会社規模よりもとんでもなく大きく見せたり、工場への支払いを大きく延ばして自社にお金をプールする。
もちろんある程度は必要なことなんですが、度が過ぎると感じることも少なくはない。
このあたりは暫く悩みましたね。

ただ、僕自身や僕の幼稚園にはセラピーの専門家に来ていただきサポートしてもらう機会があって、その先生からも重要なことを学びました。
「人を変えようと思わない」「勝手に人に期待しない」ということを自覚する。
自分の希望をしっかりと把握しつつ、正面からぶつかり続けるのではなく「どうしていくか」を柔軟に考えていくことだと。
お互いに「違うだろ」とやり取りするだけでは気持ちも体力も減っていくだけですよね。
「eguchi toys」での僕の立ち位置もデザインをメインにし、ビジネス的な展開は他のメンバーに任すなど切り分けるようにもしています。

先を見据えて今から準備していくこと

Interviewer これまでと今。そしてこれからはどのようにお考えですか。

健太郎さん 今、玩具デザインが僕自身の仕事の中心になっています。「eguchi toys」にデザインを提供したり、幼稚園のインテリアデザインを任してもらったり。
おもちゃや家具を実施に作ってくれる職人さんと色々と作戦会議をしたりして楽しく仕事をしていますよ(笑)
ようやく根っこが張れてきた。居場所が出来てきた。と感じることも増えてきました。

Interviewer 海外に出られてからずっと「欠けている」と感じられていた部分にパーツがはまってきたイメージですね。

健太郎さん そうですね。次は「これを50歳、60歳と続けていくにはどうすれば良いのか」を考えています。
将来的には田舎のほうに制作スタジオを設けて、僕たちが手作業で楽しみながらおもちゃを提供していけるようにしたい。
どこにいても幼稚園はできるので生活のベースを作っていくことはできます。
とてもありがたい状況ではあるので、これを長く続けていくようにはどうすればいいのかを考え、早めに色々と進めています。
あとは身体をしっかりケアしていくこと。年齢とともに色々な問題がでてきますがヨガなどは良いですよ(笑)

Interviewer 今までのお話も踏まえつつ話は少し戻りますが、海外に出てよかったと思っていること、失敗してしまったと感じたことは。

健太郎さん 僕は体格含めて色々とコンプレックスがありました。アートを学んだこと、海外で生活することなど「他と違うこと」を自分に付加することで補完していたんだと思います。
日本では「こうあるべき」という細かな縛りが沢山あって生活しづらい面もある。
海外だとTシャツにちょっとシミがついていても誰も気にしない。おおらかさがありますよね。
特に台湾ではそのあたりを実感することが多くあります。
ある意味、豊かさを感じているということにもなりますね。

失敗したな。。。と思ったことは、良かれと思ってお節介してしまうことですかね。
特に台湾に来てから強く感じたことです。
僕の気質なのか日本人としての傾向もあるのか。
例えば友人のバンドがあるんですが、そもそも最初は僕が単なるファンだった。
何度かライブにいったりしているうちに次第に距離が縮まって、ジャケットのデザインやライブの写真を撮ったりしていたんです。
ただ、振り返ると僕として「やってやってる」「助けてあげよう」という思いがあったんですね。
彼らも迷っているしアドバイスには耳を傾けているのでついつい音楽についても口を出したりしてしまって。
バンドの主体はもちろん彼らなので、彼らとして受け入れられる部分、受け入れられない部分もあるじゃないですか。

彼らが僕のアドバイスと違う動きをした時に「何で違うことをするんだ!」と思ってしまったんですね。
そもそもは僕の「手伝わせてよ」という話から始まったことなのに「助けてやってるのに」という恩着せがましく、勝手に「裏切られた」と思ってしまう時がある。
言ってしまったあとで「彼らに悪いことしたな、、、」と自省することも多く、今でも気を付けています。

ナレッジシェア&メッセージ

Interviewer 色々と貴重なお話をありがとうございました。最後に今後海外に出よう、働こうと考える方々にアドバイスなどいただけますか。

健太郎さん そうですね、、、
1つは「行きたい」という自分の気持ち、理由が明確にあるか。
今いるところでもやれることなのではないか。ということを深く考えてみた方が良いと思います。
何故かというと、今いるところで育てた根っこを自ら切ってまで他の場所でやった方がよいことなのか。
今の場所で育てることを続けた方が良い場合もある。

これは私自身の「根っこ」に対する考え方に深くリンクしています。
やはり植物と同じで、植え替えたら最初は葉が落ちちゃったりするんですよ。
そんな状況の中で、根腐れしないうちにより大きく育つような工夫を早くしないといけない。
これは大変ですよね。

2つ目。とはいえ、「どこに住んでも変わらない」「自分は自分なんだ」ということもあるというです。
どこにいっても大切なのは人との関係性。
どう根っこを張っていくか。張っていく過程でどんな出会いをして、どう大切にしていくか。
仕事も持つ、家族を持つ、時間を掛けることで「ここにいていいんだ」「ここに来てよかった」と感じることができます。
もちろん出会う場所や人にもよるとは思いますし、僕個人としてはニューヨークでは「ここにいていいんだ」と強く感じることはなかった。
常に緊張していたイメージです。
ただ、すごく勉強になる街でした。常に刺激を受けて、常に新しいこと、レベルの高いものに触れることができる。

みなさんにはこのあたりをまず考えてみることをお勧めしたいですね。

Editor’s note

編集後記

台北のカフェでお忙しい中たっぷり2時間。健太郎さんの歴史と考えを聞かせていただきました。
場所や人との関係性を根っこと考え、植え替えた時のリスク、また植え替えたあとにどう成長させていくか、実際に海外で30年という長い期間、活躍されているからこそ至られた部分も沢山あるはず。

台湾は日本からもとても近く、お互いに多くの旅行者やビジネスが行き交う関係。
筆者も出張で年に10回ほど。合計で30回以上訪問していますが居心地の良さを実感しています。
もちろん現地で生活するとなると色々と変わってくることも多々あるでしょう。
ただ、期間は短くとも、その場所にどう居場所を作り、成長し周りと上手く共存するか。
これを意識することで得られる経験や結果は大きく変わってくるんだろうと思います。

私自身、台北が主な拠点。
今後は台中、高雄、台東などにも足を延ばし、台湾の中での「自分の居場所」をじっくり育てて行きたいと思います。

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